協同組合もくよう連 主催 ”中村好文さんと巡る韓国の旅” に
設計の志村と、7/11(月)~14(木)参加してきます。
弊社の長老組2人が、代表してという感じでしょうか。
建築のことに限らず、様々なことに生き字引の志村と違って、
設計のせの字も知らない、相変わらずの西野ではありますが、
ご一緒するにあたり失礼があってはと、
ただ今、中村好文先生のことを、勉強中です。
で、下記のこの文章に、心打たれました。
『たとえば山奥で1人で生きていかなきゃいけないとして、雨露をしのぐためにとりあえず覆いを作るとか、そうやってだんだん住まいの原型ができてくる。そういうのが面白い。結局のところ「人ってなんだろう? 人の暮らしってなんだろう?」ってことを考えるのが住宅建築家の仕事だと思うんです。ステータスシンボルとしての住宅にはあまり興味がない。僕は、世の中に良くあるその種の住宅を「二世帯住宅」をもじって「見せたい住宅」と呼んでいるんです(笑)。ー中村好文ー』
そうなんですよね・・・以前OM入門セミナーでの感想ブログ の時でも悩んだように、
突き詰めていくと「人ってなんだろう? 人の暮らしってなんだろう?」となるんです。
住宅を供給する会社に身をおいておきながら、矛盾した考えなのかもしれません。
物に囲まれた母の暮らし方に反して、
バックパックたった一つで、世界各国を旅してきた娘は、
バックパックに入らないものは、自分の生活にいらないと言い張ります。
ほんと「人の暮らしってなん」なんでしょうね。
『宅は大きくなっていくと住宅としての純度は下がっていくような気がしています。もちろん大邸宅でも名作はありますが、世界中を回って名作と呼ばれる住宅をたくさん見てきましたけど、「いいなあ」と思える住宅は規模の小さいものが多いです。結局、「人の暮らし」と「住まい」が背中合わせになっているような家に僕は惹かれるんだと思います。「食う寝るところ」という感じがしないと、建築の純度が下がる気がする。韓国の民俗村みたいなところに行くと、小さな農家なんかは面白いんですけど、両班(やんぱん=貴族階級)の邸宅になるとなんか面白くなくなっちゃう。住宅が自分の富や地位を誇示するための手段や道具になってしまっている感じがする。ー中村好文ー』
今回その韓国の民俗村みたいなところ、
安東市の郊外、河回村(ハフェマウル)を視察します。
そこの地で、混沌としてうまく表現出来ない答えが、見つけられたらいいのですが・・・。
セキュリティーの関係で海外ではブログはup出来ないようなので、
FBでご紹介できたらとは思っておりますが、マッコリーにやられてしまうかな?(西野博子)