建築家 新居千秋先生の講演「建築思考の旅」が開かれました。
その題名が示す通り、先生がこれまで思考を重ねながら歩いてきた建築界でのそくせき、
言うなれば先生の半生を振り返る、壮大な内容でした。
武蔵工業大学(現、東京都市大学)でのユニークな学生時代のエピソードから始まって、
⇒ルイス・カーンの下で過ごした日々、英語が出来ない自分は、
ルイス・カーンに反論が出来ないゆえに、気に入られたんだと謙遜していましたが・・・
⇒ その後ロンドン市テームズミード都市計画特別局を経て、
⇒帰国後、母校や東京理科大学での講師を就任。
⇒32歳で新居千秋都市建築設計設立。
日本建築大賞受賞 の大船渡市民文化会館・市立図書館/リアスホール
等、手がけた建築物を、二度とこれはやりたくないと言いながらも、
愛情こもった眼差しで、スクリーンを見つめていた姿が印象的でした。
⇒そして、現在、先生のもとで使われている、超最先端の三次元CAD技術の紹介。
おそらく今日本でこれを使っているのは、自分のところと日建設計ぐらいだろうと
おっしゃっていた通り、素人の私でさえ、鳥肌のたつほどの凄いものでした。
とてつもなく巨大で、なおかつ複雑な形状の建築物の3Dは、スケルトンの画面上にすると、
その内部にある、小さな小さな1本のビスまで、検証出来てしまいました。
ところでこのような巨大な建築物は、得てして傲慢で、地球を見下した、
自然を無視した威圧感を受けます。
私も都内のある建物に対して、そのような感情を抱き、
嫌な気分になるので、足を運ばない場所があります。
ところが先生の建築物にはそれが感じられませんでした。
講演の前に配られたレジメにこう記してあります。
『これからのデザインというのは、情報伝達が発達しているので、もっと個人のレベルの情報に対応できる建築家でなくてはなりません。いままでのある種の大家のように、自分の形を押し付けたり、絵画や焼物なとの芸術と同じように建築家が作品を売るというやり方では建築はつくれないと思うのです。』
『建築家はより多くの地域の文化に触れ、人々と語ることによってある種の文化運動を起こします。人々は自分たちのまちで誇れるものを探したり、美しい景色を発見したりすることで、心のなかにそれは自分のものだ、自分たちのものだという意気を高揚させる力を構築します。それが私のいう”喚起/歓喜する建築”です。そのプロセスがたんに建築の形態を生み出すだけでなく、文化活動を生み出し、建築自体を地域のニーズにもとづいた多機能の施設につくりあげます。』
『そうしてできる建築こそ、オンリーワンの建築になります。それはサイトスペシフィック(その敷地の特性)なものであり、トポフィリア(場所愛)を生み出します。』
『トポフィリア(場所愛)をいかにして培っていくかが建築には大事な要素なのです。』
上記で紹介した大船渡市民文化会館に例えると、初めパッと観ると私など素人には、
なんじゃこりゃ??という印象を受けますが、これは決して建築家の傲慢さが生み出した形ではなく、
地域の人達との何回にも及ぶ、コミュニケーションによって出来た、必然性の形です。
先生は、地元のおばちゃんから、「穴通し磯は外せない」なんて訳のわからないことを言われ、
それが全体の形となっていったと苦笑しながらおっしゃっていました。
でもこの建物の完成からほどなく、あの3.11が起きました。
突然ここに500人近い人が逃げ込んできて、予期せず避難所と化したそうです。
その時『みんなで考えた建築、そして身体性のある建物は人を元気づけ』、
『非常時に建築が発揮した力に勇気付けられ』たようです。
私自身、”喚起/歓喜する建築”は、赤れんがです。
もう7,8年ぐらい経ったのか、家族旅行の下見の為に、毎週のように横浜を訪れた時期がありました。
ですから、先生が赤れんがの改修工事の説明をする時、手をとるようにわかりました。
あのスケルトンの階段も、ブルーノートも、見晴らしのいいガラス張りのデッキも・・・
先生が、一つ一つのテナントを吟味すべく、試食を繰り返していたことには脱帽です。
何よりも美しい赤れんがの夜景も、影が出来ないように計算されづくした結果と知りました。
あの時案内した山口県の叔父は、今はもう目が見えなくなり、叔母は足が悪く上京できません。
そして父は他界しました。
ですから今、赤れんがに足を運ぶ時、あの時みんなで回って良かったと感慨にふけります。
私にとって永遠の場所となりました。
先生の建築に対する熱い想いは、学生達の感動となったようで、
直立不動のまま、可喜くらし始まって以来のロングランとなりました。
私も学生時代に戻ったような熱い興奮した夜でした。(FB西野博子)